札幌薄野宣教ネットワーク
薄野の歴史の痛みについて 2004年3月12日記
札幌の草創期の歴史的背景について
一般的歴史
札幌の草創期からの歴史を負っているのが、札幌グッドアワー教会の属する地域です。札幌
に住んだ最初の和人、吉田茂八(1857年に来札)の記念碑がこの地域にあります。彼は、正 に、札幌グッドアワー教会の近辺に住んでいました。1866年には、大友亀太郎が大友掘(のち の創成川)を掘ります。そして、明治2年(1869)が札幌の歴史のスタートとされます。その年、 開拓使設置。島判官が札幌本府の建設に着手します。明治4年(1871)以降、平岸、月寒、白 石、手稲などへ移住が行われます。明治8年(1875)には、北海道で最初の屯田兵が札幌の 琴似に入植します。そして9年には、山鼻、発寒に入植します。この年に、札幌農学校初代教 頭として、ウイリアムクラークが来札します。
内面的歴史
ここまでの内容は、一般的な札幌の草創期の歴史の輪郭ですが、その内面に光を向ける必
要があります。そこに、札幌の霊的要塞があります。『物語、薄野百年史』(すすきのタイムス 社刊)によると、薄野の始まりは明治4年9月3日とされます。そして、当時の文献には、「とに かく草早期の札幌は、数千人の荒くれ男が犇めき、酒と女、博打と喧嘩の背徳の町たる趣き があった。」とあります。また、『札幌中央署沿革史』によると「札幌区創始の民は土方、職人、 浮浪者又は一獲千金の徒多く、随して人情薄く風俗亦紊れ賭博公行し飲酒に耽り殴打其他の 犯罪多く、金銭を賭すること土塊の如く醜業婦出没して淫猥の風盛なり」とあります。また、薄 野のはずれにあたる「狸小路」に関しては、夜な夜な真面目に白い手をスクッと伸ばして、― 故郷を威張ってはるばる来た大の男子等を巧みにいけどり、財布の底を叩かせて、― その ばかし方狸よりも上手なれば、人々かくは狸小路なん呼べるなり。」とあります。白首と言われ る東京からの下級私娼が狸小路で活動したのです。時の開拓使大判官はほとほと手を焼き、 私娼地帯を黙認し、公認の遊廓を求めるようになります。
明治3年末に札幌の人口(定住者)は、9戸13人でした。そして明治4年には211戸624人
となります。その頃、札幌の開拓事業のために、政府が大勢の大工や人夫を募集し雇いまし た。数千人が本州からやって来ました。それらの男性を対象に、現在の薄野の中心の十字街 の周りには、売春宿が犇いていました。明治4年に札幌はで流行った商売の一つは「女房貸 し」でした。単身で札幌に来た男性の一時的な同棲相手となる商売です。明治4年6月には南 3西4(ほぼ薄野の中心部)に、札幌警察が発足します。明治5年6月には、仮駆梅院、明治5 年9月には梅毒院が建てられ、性病にかかった娼婦らは捨てられました。開拓史は、売春産 業育成に力を入れます。明治5年12月札幌の売春特例が認められます。遊廓、売春を開拓 のための拡大再生産用潤滑油とします。売春産業に力を入れることによって、札幌は大きくな って行くのです。現在の薄野の中心部、国道36号線に面した所に、南と西に二丁ほどとが遊 廓となりました。そこで、性病にかかった娼婦らの命が次々に捨てられました。胎児の命も捨て られました。ここに札幌の歴史の悪の要塞が出来上がりました。そんな中、クラークが明治9 年8月に来札します。しかし、クラークも、札幌農学校出身の内村鑑三をはじめとする有名なク リスチャンらも、薄野への、罪の中に沈み込んだような方々への伝道はしてこなかったので す。札幌の教会史を見ると、教会は薄野を避けて建てられて来たように思えます。現在もかな りの数の風俗店が犇き、その看板を大通りに堂々と置いています。また、薄野から少し離れた 札幌グッドアワー教会の近くにも売春斡旋所が幾つもあります。北海道の十代の性感染症は 全国平均の2倍にも達しています。堕胎率は全国1とも聞きます。それには、薄野の影響も大 きいと思います。札幌の草創期から今日に至るまで、薄野から汚れの霊が人々へ向かって、 教会へ向かって流れ続けているのです。そのような中で、札幌の町は次々と広がって行き、現 在にいたるのです。
また、地図を見て分かりますように、日本の他県から札幌に来た者たちが、自分の町にあっ
た寺や神社を次々に持ち込みました。薄野近辺に16の寺や神社が確認出来ます。札幌で最 も寺や神社が密集しているのが薄野です。そこで、堕胎された胎児らの水子供養もかなり行わ れています。開拓期に捨てられた下級娼婦(娼妓)らの慰霊碑も建てられています。薄野は札 幌の発展のための捨石のようにされた面があります。そして、薄野の歴史の中で多くの女性た ち、子供らの命が奪われ、人々の罪と汚れが積み重なって来ました。そのような力が今日も薄 野に働いています。近年、風俗店が数倍に増え、若者の犯罪も急増しています。そこに、神様 が、福音を伝えることを切望していると、確信しています。
薄野への使命の自覚と伝道について 2004年3月12日記
学生時代、私は時々薄野の十字街の前で路傍伝道しました。その頃の私は、罪に誘惑する
存在への怒りゆえ、十字架を担ぎ薄野の風俗店の客引きらをにらみつけながら歩いたので す。今考えると、全く愛のない姿でです。しかし、数年前に薄野の歴史を学んだとき、心が変え られました。薄野への継続的伝道をするようにと導かれたのです。
路傍伝道・一軒一軒へのトラクト配布・ごみを拾いながらのへりくだり伝道。夜11時過ぎファ
ーストフード店等へ行き伝道。・等。様々な伝道を試みてみました。また、教会周辺に薄野で働 く多くの方が住んでいるゆえ、教会の周りへの伝道も薄野への伝道につながっていました。伝 道を続ける中、2002年5月、神様は、「薄野のあらゆる場所を祈りによって埋め尽くせ。」と語 られました。その神様の導きに応答して、継続的に、等身大の十字架を担いで薄野を歩きつ つ祈ることを実践。薄野に働く悪霊に対して勝利を宣言し、大勢の人がここから救われること を告白し、薄野で関わりを持った多くの方々の名前を挙げて祈りつつ歩きました。そのような働 きの中、今までに、薄野で働く4名の方を教会の家族へ迎えました。また、薄野にある寺の僧 侶計3名が教会の伝道喫茶に来こられ、証をすることが出来ました。
そして、一昨年9月、「薄野にある多くの方に福音を語ることが私の負債となっている。」と神
様から語りかけられました。そして、「教会が薄野にあまり福音を語ってこなかった。それゆえ に人々は癒さることも変えられることもなかった。福音を受け入れずして救われ、変えられる人 は一人もいない。福音が伝えられないなら、薄野に問題と罪が続くのは当然であり、それは、 私たちが負債を支払っていないゆえである。福音を十分に伝えてこなかったことを、薄野にあ る方々に謝らなくてはいけない。」このような心にさせられました。多くの先生たちが、札幌のリ バイバルのためには薄野に大きな変革が起こる必要があると語られます。今、一致して罪とサ タンに宣戦布告して、祈り戦う時だと考えます。そこに現代の、姦通の現場で捕まえられた女 性、売国奴と言われていた徴税人マタイ、5回離婚して6人目の男性と同棲していたサマリア の女、放蕩息子娘らが大勢います。彼らこそ、今の日本で、神の国の第一の働き人となるべき であると考えます。パウロのように、私たちにも、福音を語るという負債があることを自覚した いと思うのです。
薄野の癒しと変革のビジョンについて
将来は、偶像も悪しき働きも一掃されて、薄野に多くの教会が建ち、祝福と癒しに溢れ、主の
住まわれるところとなり、そこに宣教センターも建てられ、札幌、北海道、日本各地に教会を開 拓し、世界へも宣教する基地となる。
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